佐伯 一麦さんのプロフィール

職業:

週刊誌記者、電気工、配電盤屋などを経て、現在作家

自己紹介:

仙台在住の四十男

使用マシン:

DOS 化したモバイルギア、PC9821 ノート(Win95)、IBM Aptiva(Win98)

主な使用ソフト:

QX(執筆用、メール用、欧文用)とQ関連ソフト 電パチ IdeaFragment

QX使用歴:

約三年



QTView プラグイン版 をすでにインストールされている方は、
縦書き版インタビュー 」 をお読み下さい。


 − QXに出会う前は、どんなワープロあるいはエディタで書いておられましたか?

 1984 年にデビューしたときは、手書きで、それも筆書きでした。当時は電気工をしていたので、ドリルを使うと手の震えが止まらず、ペンがうまく握れなかったんです。そこで苦肉の策として、筆圧がかからない、慣れない筆を採用しました。ちなみに、同じときに新人賞を受賞した小林恭二という作家は、当時珍しいワープロでの応募原稿で、その対照ぶりが選考会でも話題になったと聞いています。

 − そんな事情があったんですか。てっきり元々書道が得意だったのかと思っていました。
それで、その筆書きの(笑)佐伯さんが、どうしてまたキーボードに転向されたんですか?

 手書きではどうしても締め切りに間に合わないというときに、ワープロを買ったのが始まりです。NECの文豪でしたが、日本語のワープロ名というのはどうも気恥ずかしいですね、書院だとか、一太郎とか。その点、QXは、意味不明で諸説紛々なようですが(笑)、いい名だと思っています。

 ワープロを三台ばかり使い倒して、四年前に Windows 95 のノートを買いました。これは一年間海外にいたときに、電話、FAX、辞書、CDプレーヤーなど、フルに活用して、パソコンは便利な道具だと痛感しました。いまは、液晶が真っ暗で、外部ディスプレイを繋がないと使えませんが。

 で、最初はご多分に洩れず一太郎も使いましたが、ワープロの頃から機種が変わると(MS−DOSで保存する方法も出ましたが)データの互換性が損なわれるのが不満だったので、パソコンを導入するときから、テキスト文書で仕事をやろうと決めていました。これには、(手元に無いので確認できませんが)確か中尾という人が書いた『文科系のパソコン技術』という本が参考になりました。

 それで、すぐに秀丸をレジストしたんですが、曲がりなりにも一太郎で縦打ちができることを知ってからは、横書きしかできないことが不満になって、それで縦書きができるエディタを、ということでMMとQXとを並行して使用してみて、結局はQXに決めました。

 MMはどうもパソコン上での原稿用紙環境に重きを置いているようで、新人賞の応募作品に原稿用紙に印字してくる見難さを痛感している身としては、それは本末転倒なように思えたんです。

 − そうですね。本来原稿用紙の升目は、読むためのものではなく、書くためのガイドのようなものですから。
さてそれでは、お決まりの質問です。佐伯さんがQXで特に気に入っている点を、三つだけ挙げていただきたいのですが。

 縦書きが出来て、動作が安定していること。
 ツールバーに文字をあてることが出来ること。(行書体をあてています)
 ユーザーズマクロの豊富さ(ユーザーズマクロヘルプまである!)とMLの皆さんの親切さ。一方、作者の媚びずおもねらない対応の小気味よさ。(最近のレスにあった「地道が一番」という言葉に、いっそう信頼度が増したというか……)

 − 同感、同感。ではその縦書きについてですが、執筆作業ではQXの縦書きと筆書きとを使い分けておられるそうですね。実際にはどのような使い分けをされているんですか? 簡単に教えて下さい。

 仕事の原稿執筆は今はほとんどQXですね。手書きで書き始めたものも、最終的にはテキスト化しておくことで、資料としての利用も容易になりますから。それからメールの読み書きもQXで縦書きです。
 原稿送稿以外の用件を伝えるFAX、手紙、真夜中にアイデアがひらめいたときのメモの類は筆書きです。筆圧が強いもので、ペンはどうしても苦手なんです。

 − 電子メールも縦書きなんですか? そんな人は、世界広しといえども佐伯さんだけではないでしょうか(笑)。最近、稀Jrさんの DLL とマクロが発表されたので、私もメールを読む方は縦表示にしてます。この方が読みやすいですよね。しかしメールを書く時は、やっぱりアドレスなどは横でないと確認できませんし、英単語やソフト名などもあって、ちょっと難しいでしょう。慣れかも知れませんが。
 話は変わりますが、最近「文学界」という雑誌で石川九楊氏の「ワープロを捨てよう」という論文が発表されて、ずいぶん話題になっているようですね。
 この場合のワープロというのは、「パソコンあるいはワープロ専用機で書くこと」がすべて含まれているようですが、作家の皆さんは「テキストエディタ」というソフトの存在を知らないのでしょうか?

 多くの作家は知らないと思います。
その後、石川九楊氏の提言を受けた形で「作家たちの執筆現場 ワープロ・パソコンVS.原稿用紙」という大アンケートが組まれて、そこに 140 人の回答が寄せられてあるんですが、エディタを使っていると回答しているのは、見落としがあるかも知れませんが、宮沢章夫氏ぐらいですね。(ちなみに私は、QXエディタと回答しました)

 手書きとワープロ・パソコンが半々。ワープロ・パソコンでは圧倒的にワープロが多く(ワープロソフトではなくワープロ専用機)、パソコン派はほとんど一太郎・ワードという感じです。

 もちろん、作家の作業はワープロで事足りるという面はあると思うんですが、データの互換性、予期しない動作不良によるデータ損失などの問題に直面している方もいるようです。
 それにしても、アンケートが送られてきたときには、時代錯誤な設問だと感じました。
 日本語の縦書き執筆の環境を実現するよう努力しているプログラマーには敬意を表したいと常々思っています。

 − ワープロ専用機の場合は、その機種に対する愛着もあるでしょうね。
しかしパソコンユーザーの場合を考えると、こうした文筆のプロ達が、なぜあの重くて使いにくいワープロソフトで我慢しているのか、私などはとても不思議に思います。道具に対するこだわりはないのでしょうか?

 あると思いますが、エディタの存在そのものを知らない人が多いのでしょうね。やはり、一太郎、ワードの宣伝は、目立ちますが、エディタは WZ ぐらいしか宣伝では見かけませんから。

 それから、純文学といわれる作家の場合は、一日にならせば、四百字詰め原稿用紙で三〜五枚程度の執筆量ですから、ワープロ専用機や動作が重いワープロソフトでも事は足りるのかも知れません。それでも、締切間際になって急いでいるときに、不安定になったり大事なデータをなくしたりといった経験に、私は我慢なりませんでした。

 また、一太郎でもワードでも縦書きは出来ますが、QXのようにはどうしてもサクサク入力は出来ませんし、画面もひじょうに見づらいです。

 − エディタを使う作家が少ないのは、何が原因だと思われますか? 導入が難しいのでしょうか。

 そうでしょうね。プリインストールされているものを疑いなく使う、というのが一般的でしょう。オンラインソフトの場合、解凍しなければならないというのが一つの関門でしょうか。
 一番大きいのは、理数科系(パソコンが理数科系のものとは私は必ずしも思いませんが)に対するコンプレックスが、その人を作家にさせた、というタイプが依然として多いことでしょうね。

 − QXの充実した縦書き機能がもっと知られるようになれば、作家の中にも使う人が増えると思われますか?

 はい、もちろんそう思います。
 しかし、作家っていうのは、案外保守的なんで、試してみようという好奇心があまりないんですね。マニュアル本や宣伝がないと難しいかもしれません。その意味で、今度の続鉛筆本が少しでも読まれるといいと思っています。

 − 140 人の中で、エディタを使っている人はたった二人だったわけですが、佐伯さんが持っている、他の作家達と違った要素みたいなものはありますか?

 小学生の頃から無線や電気少年だったことと、制御盤の設計施工などを行っていた経験から、メカニックなことに対する興味が強い。(その反面、パソコンの知識はなかなか増えませんが)

 作家の既得権というか、一般市民とは異なる、世間とはずれた価値観を持っている、ということにプライドを持っている作家が多い中で、作家の既得権を信じていないところがある。たとえば、手書きにこだわっている人がいたとしても、その原稿が誌面に載るのは、誰かがテキストに打ち込んでいるからだということを考えてしまうんです。

 これまででも、多くの作品は、作家が自ら書いたほかに、奥さんや編集者が清書したり、口述筆記して生まれているのですね。締め切りギリギリのときに手書きをする体力は残っていないことが多いですから。いまはよほどの大家でない限り、それだけやってくれる人はいないでしょう。となれば作家自らが対応を考えなければならない。音声入力も試みています。まだ作品の口述筆記まではいきませんが、このインタビューの回答や、文学講座の資料作成なんかにはずいぶん役立っています。Voice ATOK との相性もQXはいいですね。
 作家でも八十歳になる水上勉さんが、Macでですが、いろいろ電脳を試みておられます。

 「本とコンピュータ」のインタビューで「ぼくは人がなげてしまうような技術的なことにも、わりと辛抱しようと思ってるんですよ。道具に人間が手を貸してやるというか、道具を使うことの喜びのようなものが使ってるうちに無意識に宿ってきます」「コンピュータは健常者のためだけでなく、障害者の役に立つものでもあると思うんです。能力を補ってくれる道具なんです。眼を悪くしてから、こうした道具への興味がいっそう湧いてきましたね」といっていましたが、同感ですね。水上さんも宇野浩二という作家の原稿を口述筆記することで、文章を鍛えた人ですから、変な作家のプライドがないんだと思います。

 − なるほど、プライドの問題もありますか。となると、パソコン、さらにはエディタの導入までには、かなりの障壁がありそうです。何となく、今までエディタが普及していなかった理由が分かってきました。
 それで、導入までは問題なくできたとして、次は実際の執筆作業ですね。これは以前から個人的に気になっていて、今までも作家の皆さんには機会がある度にお尋ねしたことなのですが、井上ひさし氏が言われるような「ワープロで書くことによって失われるもの」はあるとお考えですか? もしあるとしたら、その原因は何でしょうか?

 視力。というのはともかく、縦打ちが出来さえすれば、基本的にはないと思っています。
 逆に、ミステリー、SF、ホラーなどのジャンルでは、資料の駆使、枚数の多さ、それからアウトライン的な構成を要求されると言う点に置いて、今後ますますワープロというよりテキストエディタの使用が有利になるでしょうね。また、それらの新人賞の下読みをしている人は、手書きではもうはじめから読む気がしないとまでいっています。
 私はそれには賛成はしませんが、そういう状況には確かになっているようです。

 − ご自分の書かれた作品以外では、特にどの作家がお好きですか?
 日本の作家に限らず、翻訳物でも構いませんので、2,3人挙げて下さい。

 難しいですね。好きというのとは違いますが、戦後に限っていえば大岡昇平、大江健三郎、中上健次、古井由吉は、避けて通れないと思います。外国のものでは、アイスランドサガをずっと読み続けています。仕事になってしまうと、どんなジャンルのものでも、文章であるかぎり好きとはいえなくなってしまいます。

 ちょっと質問からずれるかも知れませんが、太宰治の代表的な短篇の一つといわれる『女生徒』の題材となった文学少女の日記全文が資料集としてまとまって刊行されることになったんですが、『女生徒』は素材、表現まで日記とそっくりで、題材というより模倣に近いものだったんです。
 太宰がしなやかな少女の感性を書き上げた虚構の作品とされたものが、冒頭近くの「自分の顔の中で一ばん眼鏡が厭なのだけれど、他の人には、わからない眼鏡のよさも、ある……」から、「眼鏡は、お化け。自分で、いつも自分の眼鏡が厭だと思っているゆえか……(中略)美しい目のひととたくさん逢ってみたい」までの数段落は日記の原文とまったく同じなんです。

 ただ、作品は三カ月分の日記を一日のできごととしてまとめたりしてあって、盗作とまでは言えないのではないか、と私は思いますけれど。そういう意味で、一般の人が書いた文章が、そのまま名短篇になるという可能性は、インターネットのホームページやMLの中の文章にもいえるんじゃないでしょうか。また、現代の口承文化は、インターネット上に探ることが出来ると思っています。

 − まだまだ、お聞きしたいことはたくさんあるんですが、長文を横書きで読むのは疲れますので(笑)、この辺にしておきます。
本日は、本当にどうもありがとうございました。



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